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執筆者の写真加藤亮太

井上忠司「『世間体』の構造 ー社会心理史への試みー」

更新日:2019年1月14日

を読みました。(講談社学術文庫 初版1977年)


日頃より「世間体」を気にすることしきりの、私・カトウです。

私には、世間体を気にして、持っている力を十全に発揮できないで、脇汗を流すことが、多々あります。


世間体なんぞ、どこ吹く風、気にしなければいいのですが、

「いにしえの考えに縛られてなんていられないわ」という、若者キャラ、あるいは、破天荒キャラ、天然ボケの顔して、俺はわき目もふらず行くぜ、と目指す。そうやって目指すスタンス自体、ワナ。そのスタンスは、気にしないその先、つまり、気にしないことにした古い世間体Aの、そのひとつ外側にあるまた別の世間体Bに準ずるよう、注意し、気にしている、という前提で生まれたスタンスであって、結局世間体Bを気にしている、ので、涼しい顔のふりして笑ってみせても、脇汗がだくだく出てきますし、笑顔は引きつっていく一方で、暑苦しい。


苦しい。


世間を気にする苦しさの根源は、何?

そもそも世間体とは、ちゃんと説明すると、何なの?


そんなことを考えつつも、ボーッと生きていたら、ちょうど鼻先にあった本書。

手に取りました。金町中央図書館にて。


副題にもある通り、社会に発生・影響する心理を論じてきた学者たちは、我が国の「世間体」をどう取り扱っているか、

これを、やや俯瞰的に、斜め上の角度から、学問の歴史をたどって見てみよう、という内容がメイン。

ひるがえせば、「あれれ。皆ぜんぜん取り扱ってくれていない。もっとちゃんと扱ってくれよ!」というのが作者の思いで、それが熱く溢れています。

(ついつい溢れてくる瞬間が、たのしいです)


本書は、作者の考察を展開する、研究論文であり、読み物のつくりとしては、まあ面白くもないのですが、論の内容は濃厚です。

40年以上前の文化論ですが、日本人の心理には、こういった歴史があったのか、必然性があったのか、と驚かされます。


他国と違い、唯一絶対神をもたない日本人にとって、世間体は強烈な価値基準そのものであり、世間体を保つために心を砕いてきた、というのが結論として述べられていますが、それはちょっと大雑把な言い草だと思いつつも、


とくに舌を巻いたのは、

江戸中期〜後期の庶民たちのいう「世間」というのは、自分たちとは遠い外部、自分たちの属するムラの外に広がる世界のことを指して、「世間は別」という考えのもと単純に結束していた。

が、旅ブーム、ならびに明治の他国からの視点の流入(近代化)によって、

「世間」観が複雑化・重層化、

静かに停止していたものが、ダイナミックに動き出し、

例えば自分の家族は自分の属する集団(閉鎖する)、

自分の会社の同僚も自分の属する集団(開かれる)、

閉鎖した集団と、開かれていてもヨソではないミウチとしての集団と、それら二つの特徴は一見矛盾しているようでも、状況に応じて動きながらも共存している、

だから、我々はホンネとタテマエの使い分けが余儀無くされる、

という論。

現代生きてゆくのは暑苦しいわけだ、ということ。



ところで本書の一部を大学受験の問題文で読んだ覚えがあります。

つまり、理屈を読み取れるのか否か、試されること請け合いの内容です。


「理屈っぽい人なんてきらいだ。ああはなりたくない」

とは思いますが、

とはいえ、まずは理屈でものごとを考えられるようになりたい、とも思います。

理屈くらいは、最低限は解せるように、と。

同じ思いにある方には、良いトレーニングになるかと思います。

実際、読んだ後、少し頭が良くなった気がしています。


もちろん、日頃から「世間」という厄介なものに疑問を持つ方には、必読の書となっています。


おすすめ度 ★★★☆☆(星3つ。とりあえず序章〜2章までだけでも、よかったら)



※図書館で借りたので、貸し出しはしておりません。




 

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